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7/31/2021

文月 7月

遠藤周作の小説「沈黙」は大傑作だと思います。


昨年1月の雑記に書いたのですが、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」を観た後に、篠田正浩監督が1971年に撮った「沈黙」が存在することを知りました。そして最近、篠田監督版がネットでレンタル出来ることを知ったので早速鑑賞しました。
ここからは「沈黙」を読んでいないと分からないレビュー的な文章になると思いますが、小説の細かい内容については割愛させていただきます。

篠田監督の「沈黙」はオープンセット、ロケーション、衣装、小道具など細かいところまで妥協が無く、壮大な映像が素晴らしかったです。スタッフも豪華で、カメラは溝口健二監督の作品などで有名な宮川一夫。構図が素晴らしく、完璧なカメラワークだと思いました。音楽は武満徹。時折不安定な旋律が効果的に流れ、観る者の心拍数は上がります。

しかし残念ながら「なぜ?」と思う点がいくつかありました。
映画の前半はとても良かったのですが、中盤、キチジローがロドリゴのことを密告して得たお金で長崎の花街に行くという原作には無いエピソードから「あれ?」と思い、その後の話の流れもちょっとオリジナル感が強すぎるかなと思いました。決して原作に忠実であるべきだとは思っていませんが、ちょっとスピンオフを観ているような唐突感があって正直私は困惑してしまいました。

あと、ロドリゴの師であるフェレイラ神父を演じているのが厚いメイクをした丹波哲郎で、これは違和感が大きかったです。もしかしたらポルトガル人っぽい適役が見つからず、苦肉の策だったのかもしれません。
また、ロドリゴが少々ヒステリックな点、日本語と英語が統一感無く交錯する場面が見受けられたのも気になりました。

「沈黙」ではロドリゴが棄教するまでの心の葛藤、そして神の沈黙についてがとても重要だと私は思っているのですが、そこの描写があまり見られないまま、かなり突飛な終わり方をしたので(エンディングのネタバレは控えておきます)、脚本、台詞で参加していた遠藤周作自身の意図はどういうところにあったのかがすごく気になってしまいました。

後日、当時の映画パンフレットを取り寄せてみるとこのような遠藤周作の文が載っていました。
「この映画の前半は私の娘のイメージであり、後半は篠田氏の血液がこいい。」(このパンフレットで遠藤周作は原作のことを娘に例えている)
「非常に感心すると共に、篠田氏にラストをカットしてくれと注文をつけた。篠田氏はイヤだと言った。」
なるほど、これはあくまでも篠田監督の作品なんだということが分かりました。

なんだか良くないと思った点ばかり挙げてしまいましたが、それは原作への思い入れが強いためだということでお許し願えればと思います。「沈黙」が好きな方は是非、篠田版、スコセッシ版、両方の映画を観ていただけたら楽しめると思います。
(写真は文学つながりで角川武蔵野ミュージアムの本棚劇場です。近隣にこのような場所が出来て嬉しい!)