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9/30/2021

長月 9月

コロナ禍の影響もあって10歳の娘がタブレットを使いこなすようになり、知らぬ間に私が書くこの雑記の読者になっていました。先日、そんな娘からこんな一言が。

「次は渋沢平九郎のことでも書けば?」
そのアイデア、いただきました。

巷では渋沢栄一の話題が多い年になっていますが、私の住む埼玉県飯能周辺エリアでは面白い現象が起きていて、どちらかというと栄一よりも見立養子であり義理の弟、渋沢平九郎で街が盛り上がっています。
商店街や市の博物館には平九郎の旗やのぼりが見られ、お店ではラベルに平九郎の姿が描かれたお酒を見掛けたりするほどです。

1867年、渋沢栄一は幕臣としてパリに渡るのですが、当時の渡欧は何があるか分からないので、家の跡継ぎをきちんと決めてから出発するのが普通だったようで、栄一は妻、千代の弟、尾高平九郎を渋沢家の養子に迎えます。しかしここが大きな運命の分かれ道でした。地元で平穏に暮らしていた平九郎はその流れで幕臣になるのですが世の中は激動し、大政奉還があって幕府軍と新政府軍の戊辰戦争が勃発。上野の戦争の後に飯能でも戦争が起こり、平九郎はこの飯能戦争で幕府側の一人として戦いました。

振武軍と呼ばれた幕府側は一日ももたず敗北し散り散りに敗走。平九郎は仲間とはぐれてしまい、たった一人、生まれ育った現在の深谷に向けて敗走中に新政府側に見つかってしまい、追い詰められて自決します。飯能で共に戦った平九郎の兄、尾高惇忠と栄一の従兄弟、成一郎は逃げ切って、後に惇忠は富岡製糸場の初代場長となり、成一郎は大蔵省に出仕していることを考えると、平九郎は不運だったのかもしれません。そのような平九郎にとても興味があったので、先日、渋沢平九郎が人生の最後にたどった道を訪れてみました。

まず飯能戦争の舞台、能仁寺→敗走の途中に立ち寄った現在の平九郎茶屋→平九郎が自決した地→最後に平九郎の墓と巡ってきました。対向車が来たら嫌だなあと思うような細い山道を車で行くのですが、きっと当時は比べものにもならないぐらい険しく、たった一人で逃げるのは怖かっただろうし、相当心細かっただろうと思います。結局、平九郎は栄一たちのように何かを成し遂げることもなく22歳の若さで散ってしまい、さぞかし無念だっただろうなあと思いましたし、その人生を想像すると切なくなりました。

失礼ながら歴史的には無名かもしれない平九郎がなぜ忘れられなかったかというと、平九郎の記録や演劇まで残した栄一の行動も大きいと思いますが、写真に残っている平九郎がとてもかっこいい!というのが一番の理由だと思います。時代が100年以上後だったら二枚目俳優として活躍していてもおかしくありません。土方歳三にも負けない渋沢平九郎の姿、知らない方にも是非見ていただきたいです。これからさらに人気が出るかもしれません。

写真は平九郎ファンも訪れる平九郎茶屋。
飯能市立博物館では10年前の特別展「飯能戦争 飯能炎上」の図録を復刊していて、そちらも読み応えがあっておすすめです。